明治大学校友会逗子葉山地域支部ホームページⅡ

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会員からの寄稿  『明治大学との生涯』 森尾忠憲

 後期高齢期に入り、振り返って見ると、小生の生涯は、明治大学と深い関係にあったことを、今更ながら思い識らされる。海軍水雷・通信学校を出て外務省勤務となった父親海軍病院婦長を務めた母親との間に次男として生れ、吉林、芝芣(チフウ)、北京で幼少年期を過ごしたので、小学校期には「チヤンコロ」と蔑視されたこともあった。

 敗戦后の学制改革期には、軍国主義者、国家主義者の諸先生が、御神影を撤去し、生徒自治会の結成を促した。こうした先生方の転身に、深い疑念を抱かされた時期をすごした。福島県須賀川高校卒業后、特幹として入隊し、戦后復員した、優れた技術者であった兄の紹介で、NTT(旧電気通信省)京橋電話局(東京都銀座、現博物館)に勤務できた。兄に負けない技術者になることを目指し、機関士(ボイラーマン)一級の資格を獲得、明大政経学部Ⅱ部在学中にも、晴海電話局新設工事に関係し、電力機器設置の現場監督の職務を不安に駆られつつも、何とか無事に果した。

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  (中央に立っている方 寄稿者 S35政経卒・S47博修了 森尾忠憲 氏)

 この間にあってなんとしても消え去らないものがあった。それは小林多喜二三木清の惨死であった。ある日、偶然、築地警察署を通過した際、この思いが猛然と蘇返った。ここでやられたのか。くそ!!!。この激怒が、明大入学の最強の動機である。

 京橋電話局勤務5年目にして政経学部Ⅱ部に入学した。同学部は、実に貴重な交友の場を与えてくれた。国鉄(JR)勤務、税務署勤務、鉄工業勤務の諸学生との交際は、小生の視野を広げてくれた。鉄工業勤務の学友は、小生の大学院入学資金を貸与してくれた。これに加えて諸先生方は、勉学意欲に応えて下さった。ナチズムについて質問した曽村保信先生は、自宅に招いて下され、独逸語の学習を促され、奥様は、日本酒づきの夕食を用意して下さった。また海上自衛隊観艦式の参観、硫黄島見学の機会を与えて下さった。また大学院時代には秋永肇先生は、朝鮮人学生とともに、自宅に招いて懇談の機会を与えて下され、奥様は夕食を与えて下さった。

 学部と大学院との在学の時期、略々十年間、職場京橋電話局の先輩、同僚は、理解と同情とを与えてくれた。交替制勤務も幸運の大きな原因であったが、先輩、同僚の理解と同情なしには、不可能であったことを、今更ながらに思い起し、心から感謝する次第である。ところで博士課程終了と同時に、全面的に職場復帰を考え、先輩、同僚の好意に報いたいと考えていた時、思いもよらぬことが起こった。大学院指導教授秋永先生が、流通経済大学教員への就任をすすめて下さったのである。白石教授も「労働者学生」の就任を支持して下さった。これは、全く思いもよらぬことであった。職場の先輩、同僚の好意に背向くことになりはしないかとの疑念を抱いたが、むしろ先輩、同僚は、積極的に転勤をすゝめてくれ、このことが決定的に転勤を決意する勇気を与えてくれた。

 転勤した流通経済大学茨城県在)は建学后、ほどなくして、独立を維持しえず、他大学への併合が問題となった。独立維持を主張する佐伯弘二学長を支持する教員の一人として小生は、広報部長に任ぜられ、流経大紹介に努力し、明大出身教員の支援もあって、ほぼ5年目頃から、何とか独立可能となり、今になっても協力した職員との交わりを続けている。 

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 この間にあって、母校明大では、非常勤講師として一講義(和泉校舎)とゼミ(駿河台校舎)とを担当し続けたが、流経大の経験と共に、改めて「教育」のなんたるか、を思い識らされるにいたった。教員としてのそして先輩としての二つの側面である、ということである。

 これを思い識らせてくれたのは、秋永先生の紹介で出会い、予想に反して一緒になってくれた賢夫人和子女史である。横須賀港見学に関連して明大ゼミ生を拙宅へ招待してくれた。これはゼミ学生との接近をいっそう深めることとなったばかりか、提出する卒論にいっそう努力する契機となったらしい。流経大生を含めて毎年、年賀状50余通があり、返書を書くのに忙殺されるという実に嬉しいことにつながっている。

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            (中央白い帽子 森尾和子 夫人)

 ところで流経大独立の見通しがついた頃、秋永先生は、博士論文の提出を促された。スペイン系ユダヤ教徒B・スピノザのデモクラシー論に着手した。曾村保信先生の歴史学研究指導と秋永先生の思想史指導とに添ってまずスピノザ家族を受け入れたオランダの半世紀に亘る独立闘争を背景にして、「孤独でレンズを磨いて虫の動きを楽しんだ」といわれるスピノザが、アムステルダムを中心に政界、知識人界に以外と多くの友人を持っていたことを識った。これを前提としつつ、スピノザの汎神論、世界観は、神的自然の生産としての人間が、根源において多種多様であるにも拘わらず同等であり、平等であり、この多様性と平等性がデモクラシー論の基底にある。諸個人の結合と協力とこそが 神的自然への接近を可能ならしめる。それゆえスピノザは、政治型態としてのデモクラシーこそ、真の政治型態であることを論じていることを識った。

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        (オランダの哲学者 バールーフ・デ・スピノザ)           

 博士論文は受容され、博士号授与式では、授与者を代表して明大への答礼を拝呈した。かくして明治大学が支えてくれた修学の機会を、職場の同僚先輩の理解と協力とによって与えられ、明治大学との関係を略々50年に遡って持続したのであるが、拙稿執筆に貴重な機会を与えて下さった学友、足立さんのご好意に心からお礼を申しあげたい。 

(事務局追記

1.小林多喜二は小樽で育ったプロレタリア(労働者)文学者として知られ、作品の特

  高警察による拷問描写が憤激を買い、後に拷問死させられました。森尾さんにと

  って思いの深い人物だったと思います。

2..昨年2月当支部会員数名で鎌倉東慶寺に文化人の墓を訪ねましたが、西田幾多郎

  岩波茂雄東畑精一の墓で共通の人物である、あの「人生論ノート」で昔ブームを

  起こした三木清を思い出しました。西田は恩師、岩波はドイツ留学の資金援助者、

  東畑は妻の兄でした。 終戦後にも拘わらず獄中で惜しい哲学者を失いました。

3.バールーフ・デ・スピノザは、オランダの哲学者です。デカルトライプニッツ

  と並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられて

  きました。また、ドイツ観念論現代思想へ強大な影響を与えました。

4.文中の和子夫人には以前よくウオーキングクラブ行事にご参加いただきました。

  写真は田浦梅林ウオーキングの際のものです。

森尾忠憲様 有難うございました。他の方からも寄稿文をお待ちしています。

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